嫌われ者の肖像〜三宣的野中弘務論〜

 はっきり言って、この人が好きだと云う人間は、あまりいないと思う。
 世の中の大多数がそうであるように、管理者にとっても、一目置くことはあったとしても、大嫌いなタイプの人間であることは、間違い無い。
 京都府副知事時代から、その卓越した情報収集力は有名で、共産党にしてみれば不倶戴天の敵であることは間違いない。
 かと思えば、憲法改正論議に際しては、どういう事情からかハト派的な主張をし、自民党の保守派からも煙たがられていることは容易に想像できる。そのような調子だから、田中真紀子をして「野中だか、最中だか知らないが」と云われる始末である。
 要は野中弘務という政治家、否、政治業者は、先天的な嫌われ者なのである。
 しかも相当に屈折しているフシも伺える。小渕「冷めたピザ」内閣で官房長官を務めていた当時も、宰相の無能を良いことに、政権を思いのままを操り、強権的な政策を推し進め、気が付けば、ろくな論議もされぬまま「国旗・国家法」、「ガイドライン特別法」、「盗聴法」、「国民総背番号法」を実現させ、多くの反権力的思想の人間の怒りを買っていたのは、まだ記憶に新しいところだろう。
 だが、その一方で、彼は自分の理想に忠実であるがゆえに、憎まれ役を演じる羽目になることが多いのが事実だろう。
 「10歳若ければ、宰相の座に就けた」という声も耳にするが、さてそれもどうだろうかと思う。恐らく彼の人生は、ナンバー2哲学に彩られている故、たとえトップになれる機会があったとしても、その座に就くことはなく、影働きに生き甲斐を見いだしてしまうのではないだろうか。
 本来、政治家とは憎まれ役を買って出なくてはならないところが、多くは大衆迎合的な政策を執りがちである。その典型例が、石原慎太郎であると云える。彼は誰にも好かれようとしているように思える。それが破綻を招く結果になることを気付いてはいない。結果、破綻したとしても彼は自ら責任を取るようなことはなく、いつものようにマス・メディアに責任を転嫁することであろう。
 方法論、倫理論は、この際、抜きにして一体、どちらが政治業者として、まだ誠意のある存在なのだろうか?と管理者は思ってしまうのだ。
 そう思わせてしまうほどに、この国の政治の病理は深い……。

 (2000.1.1) 

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